社会悪の発生源 「コンビニ」 -3ページ目

第33章.犯罪誘発と防犯協力の矛盾

私の店でも、近所で何か事件が起こるたびに、警察の方が来て録画データのや、レジジャーナルの提出を当たり前のように求められます。

元来、店舗の防犯設備は何の為にあるのでしょう?

それは自店の防犯の為であり、そのための設備投資であるはずなのです。

地域特性の違い(犯罪の発生件数)も多少関係しているとは思いますが、実際のところ、自分の店の為に役立ったというより、

地域で起こった事件の、犯人検挙に役立ったという話しを同業者の間でよく耳にします。

こんなところにまで、コンビニの利便性は浸透しているのですね。


しかし、忘れてほしくないのは経営者の立場。。。。

防犯カメラやその類の機器に関わる設備投資は、種類、規模、により様々ですが、

レンタル・リースで月に約15000円から40000円、年間にしたら180000円から480000円。

購入したとしても、使用年数による消耗劣化・故障で買い替え等のサイクルを考えれば、同等の金額がかかります。

それも地域の安全の為!?実にアホらしい話です。

ましてや、地域住民や警察の人間が、そんな内情まで考えているワケも無く、どちらかと言えばコンビニなんだからそれくらい当たり前といった感覚なのです。


一般小売商店が主流だった時代は、お店と地域との間には血の通ったお付き合いと相互関係があり、住民同士の間にも自然なネットワークが形成されていた為、犯罪も起こりにくく、防犯カメラのような設備すら不必要だったですよね。


現在のコンビニは、その性質上、犯罪の舞台になったり、また、犯罪を誘発してしまうような立場でありながら、一方では防犯設備に力を入れて地域の安全に貢献しているような立場を装ったりもしているのです。

第32章.社会における位置づけ(社会的地位)

今日において、もはやコンビニほど、世の人々の要求をくまなく満たしてくれる業務形態は、他に類を見つけるのが困難なほどです。そして、それは今後もとどまる気配すらありません。

これは、同時に、社会全体から見たコンビニの位置づけを、限りなく底辺に近づけているのです。


「人々の要求、欲求をいかに満たすのか」、ということを、生き残り、発展の策としているコンビニには、

その反対の、「規制」という概念は、基本的にありません。

極端な言い方をすれば、コンビニに「NO」という言葉はないのです。もしくはそれを目指しているのです。

その結果、消費者の心理はコンビニという店舗形態だけに着目し、そこに携わる人々の生活、さらには人格すら見えなくなってしまっているのです。時には、明らかにさげすんで見ている社会の風潮さえ感じます。


無法に捨て放題の「ゴミ箱」、長時間の「立ち読み」、「迷惑駐車、駐輪」‥・・は、まさにその産物であると言えるでしょう。

職場や学校、家庭でのイライラを店員にぶつけていく人も珍しくありません。


私は、コンビニ以外にも他種形態の小売店を経営しておりますので、ご利用いただくお客様の態度の、あまりの違いに驚かされるのです。

第31章.「自己責任」と「責任転換」

先日、公園へ散歩に出かけた折、ドッヂボールをしている親子連れに出会った。

子供が4人と大人が2人、おそらく我が子と、その友達を連れて遊びに来た夫婦といったところだろう。


しばらくすると、公園の管理事務所の人らしき人物が現れて、

「ここではボール遊びはしないで下さい。禁止なんですよ。」と言った。

すると、その家族連れのお父さんが、即座に事務所の人に詰め寄り、こう言った。

「何だ!おい!あっちではフリスビーを投げてるやつもいるじゃないか!こっちだけに言ってんじゃねぇよ!くそじじいが!」

まぁ、確かに、フリスビーで遊んでいる人も居たので、気持ちは分からんでもない。が、しかし子供の前で親が見せる態度としては、いかがなものかと思った。



はたまた、テレビの報道番組では、こんな内容のものも見たことがある。公園の遊具で遊んでいた子供が大ケガをした事に関し、遊具の設計に問題点は無かったのか、という題材だった。結果的には遊具の設計が見直され、より安全を重視したモノへと作り変えられたらしい。


しかし、公園でボール投げをしていて、他人にケガをさせてしまう危険性があるのにもかかわらず、注意されてもそのまま続ける行為も「自己責任」であれば、遊具であそんでいる子供を監視するのも親の責任であり、また、その遊具が我が子にとって危険かどうかを判断するのも親の責任であると思うのです。



つまり、自分にとって都合の良いように、「自己責任」を主張してみたり、「責任転換」しているのです。こういった、自己中心的でわがままな現代人を増やしてしまう社会的要因のひとつに、

サービス合戦に歯止めをかけず、不道徳で倫理観の感じられない店舗展開、運営をしてしまっているコンビニの存在が大きく関わっているように思えてならないのです。


第30章.手っ取り早さ

様々な便利に共通するものは何だろうか?と考えてみた。

それは、「手っ取り早さ」ではなかろうか?

コンビニの営業スタイルは、消費者にとってまさにこの「手っ取り早さ」の集大成とも言える。

しかし、この「手っ取り早さ」は、反面、悪の要素も持ち備えている事を無視してはならない。



何事においても、簡素化、簡略化を優先する、それが優れた知能を持つ人間の「合理化」という文化であり、

それはこれまで、様々な分野でもてはやされ、脚光をあびてきました。

しかし、最近はそれらを今一度見直すべきではないのか、と考えざるを得ない事件や現象が目立つようになってきている気がするのです。

某大学の学生らが、鍋パーティーで女性を泥酔させ乱暴した事件。

これも、婦女暴行事件そのものは言うまでも無いが、女子学生が男性の部屋で深夜まで鍋を囲み酒を飲むという行為事体が、そもそもの間違いなのではないか。男女交遊も「手っ取り早さ」を優先すると、こういった形態になるのだろうか? 

最近では、デートDV(ドメスティックバイオレンス)という言葉さえ耳にするようになった。交際している男女間でも、キスやSEXを強要して事件に発展しているというのだ。



現在、拘留中のホリエモンのこれまでの行為も、まさに合理性の追求によるものであり、額に汗してお金を稼ぐという行為を非合理的な方法として、眼中に置かず、「手っ取り早さ」を優先した結果の結末だったのではないのだろうか?



問題は、子供たちの育つ環境にある。

社会も今一度、コンビニのあり方を考える時期に来ているのでは?



第29章.「猿まわし」の猿

ライバルの猿回しは、サルに新しい芸を身につけさせた。お客にはとても好評だった。


それを知ったもう一人の猿回しは、では自分のサルにも、と、似たような芸を身に付けさせた。

お客には、まぁまぁウケた。が、しかし、やはり二番煎じでは・・・・、と思い、さらに新しいアイデアでもって客を喜ばせる為、サルに滑稽なポーズをとらせてみた。実にウケた!


ライバルの猿回しは、それに負けじと、更なるアイデアを出した。アクロバット芸を覚えさせた。客は驚き、こちらの猿回しは大繁盛!!


しかし・・・・サル達にも限界があった。いくらなんでも無理なものは無理。逃げるサルまで出てくる始末。


となると困ったのは、サル使いの方だ。さぁどうする??

まさに朝三暮四のように、あの手この手で引き止めるか。

山へ行って、何も知らない野生のサルでもひっ捕まえてくるか?




さながら、コンビニ本部がサル使いで、加盟店がサル、といったところでしょう。

もはや、昨今のコンビニ業界において、出店したい場所、営業できそうな物件(場所)はいくらでもあるにも

かかわらず、肝心な経営希望者が見つからない、というのが現状です。

そこで、経営委託方式などというやり方で、小資本(300万~400万)で独立オーナーになれるといったような歌い文句をちらつかせ、例えば独立夢見る定年間近のサラリーマンなんかが、食いついてくるのを待っているのです。


私が言いたいのは、せめて、コンビニ本部あるいは業界が、もう少し「猿」あっての「猿回し」というスタンスを守っていてくれたなら、あるいはそういう考えになってくれていたなら、コンビニもここまでエスカレートしなかったのでは、ということなのです。


猿(演技内容)が変われば、客(喜び、感動の本質)も変わる、これすなわち、世の中(社会)も変わる。






第28章.規制

戦後、日本はすさまじい経済発展を遂げ、様々な場面で人々の生活を豊かにしました。

まず、電気製品をはじめとする生活用品は、その技術力の向上から、人々に「便利」を与えました。

その後、それもある程度の位置まで行き着くと、

モノだけに留まらず、次は生活の基本的部分にまで、「便利」は浸透していきました。


それはまさに、食品小売形態の変化です。生活において最も身近である小売店での買い物を、その形態を変えることによって、様々な「便利」を手に入れることに成功したのです。

しかし、これはただ単に「楽」を求めるだけの、堕落した人間をも同時に作ってしまったのです。


言うまでも無く、ソフトウエアばかり充実しても、肝心なハードウエアが貧相ならば、バランスが崩れ、上手く機能しないのです。


そういう便利社会に染まりきってしまった若者たちは、とかく「規制」という言葉に敏感です。権利ばかりを主張し、義務を果たそうとしない若者たちは、まさに便利社会の産物と言えるでしょう。

ですから、コンビニでのえげつないエロ本(有害図書)や、過激なゲームソフトに規制がかかるとなると、過剰に反応するのです。


しかし、逆に、規制をしないままだと、どうなるでしょう?


利便ばかりを追求して、モラルは後回しにしてきたコンビニ業界のように、「売れれば良い」くらいの感覚で

「女性をレイプするゲーム」や「バラバラ殺人」などのゲームが作られ販売されてもおかしくないでしょう。


買う側の人間性の問題であり規制は不要、と指摘する人々もいるようですが、その人間性、道徳重視の人間性を育む社会が出来ていないからこそ、規制が必要なのです。

そして、そういった社会を先導しているひとつの形態がコンビニだということです。

第27章.プロセス軽視の発信源

真夜中に小腹が空いた→コンビニのおかげで満たされます(かつては、開店まで辛抱してからというプロセス)

電気料の支払期限が過ぎちゃった→24時間いつでもコンビニで支払えます(かつては銀行窓口が開いている時間内に、もしくは口座引き落としの手続きをするというプロセス)


例を挙げれば限が無いですが、利便性とは、いかにしてプロセスを省略するかという基本理念によって成り立っていると言っても過言ではなく、コンビニの営業内容はまさにその集大成なのです。


しかし、人間の生活において、実はそのプロセスこそが重要であり、そこから様々な道徳を学ぶことが出来るのです。

店舗前のゴミ箱は毎日どのようなプロセスで、きれいになっているのか。

コンビニでお弁当を買って、子供に食べさせるお母さんと、毎日献立に悩みながらも愛情のこもった手作り料理を子供に食べさせるお母さんの、子供に食事を与えるまでのプロセスの違い。

そういうことを考える能力が退化してしまっているような気がしてなりません。


飛躍のしすぎかも知れませんが、最近の凶悪犯罪には、理由の無いもの、あるいは理由のあいまいな物が多いですよね。昔は、殺人でも何でも犯罪を犯してしまった人には、れっきとした理由がありました。

つまり、犯罪に至るまでのプロセスに大きな違いがあるのです。


こうした、プロセス排除、省略という風潮が、犯罪にまで波及していることに気付いて欲しいのです。

そして、その風潮の発信源、その代表格がコンビニであるということを・・・。

第26章.サービスと利益率

サービスと利益率は比例する、という概念を、コンビニは見事に崩壊させてしまった。

元来、食品小売業の利益率は、様々な販売業分野の中で最も低いことは言うまでもありません。

それは、日常的に必要なものを販売しているのですから、当然と言えば当然なのです。


もともと、「年中無休24時間営業」、それ自体がサービス的要素の最も大きなものだった時代から、徐々にどのサービスも、コンビニでやるものはすべて当然の業務としての意味合いのものに変革してしまいました。

150円そこそこのカップラーメンに、お湯を入れ、箸をお付けする。ゴミは不道徳に捨て放題。

トイレは貸して当たり前。各種公共料金の支払い(金融機関のサービス業務の肩代わり)。


フランチャイズ本部の生き残り策として、様々なサービス合戦を展開してきたが、ここへ来てそれが誤りだったことに、徐々にではあるが気付きはじめてきているらしい。

それは、あまりにも消費者(コンビニ利用者)のみに、着眼しすぎた結果、今度はコンビニ経営者が不足してきていることにある。


つまり、サービス合戦を繰り広げるのは、あまりに安易な選択だったのです。冒頭にも述べたとおり、少ない利益でサービス業務ばかりを重視すればどうなるかと言うことです。その上、消費者は、それをサービス業務とは認識していない、という悪循環がうまれているのです。そんな商売、誰が好き好んでやりますか?


電車の中でこんな会話を立ち聞きしてしまいました。

「〇〇〇のコンビニは、お釣銭の札をキチンと裏表、上下揃えて渡してくれる。とても感じが良い。」

たかが食品小売業に、一体どこまで上級な、あるいは上質なサービス、接客を求めるのでしょうか?

その方が、一体どれくらいの金額のお買い物をなされたかは知りませんが、所詮コンビニでしょう。

高級レストランや、高級ホテルにでも行ったつもりなのでしょうか?


そうです!こうやって、社会の根本から勘違いさせてしまう作用、それがコンビニの存在です。

第25章.道徳不要社会

少し乱暴な表現かもしれませんが、「金さえあれば、法に触れなければ、すべてよし」

こんな風潮が色濃い今日この頃、成長途中の多感な子供たちの目にはどう映っているのだろうかと不安な気持ちになります。

金に物を言わせるような、株の買占めによる企業の支配。

そこには、「道徳」はあるのだろうか?

関係する人々の、気持ちや考えは少しでも反映されているのだろうか?


「市場に売られているものを買うことが何故悪いのか?何故買ってはいけないのか、理解できない。」

そのような類のことをおっしゃる某IT企業の社長。

あるいは、阪神電鉄の株に目を付けた〇〇さん。

世間の反感をかっている間は、まだましなのかもしれません。問題はそれらを見て成長していく今の小学生や中学生が社会に出る頃、どんな社会人になるんだろうか?ということ。

電車の中で化粧をするギャルが

「別に法律に違反しているわけじゃあるまいし、ただ椅子に座って化粧するのが何故わるいの?」

というのと、似たようなレベルに感じます。


コンビニの台頭が、道徳不要の社会文化を発展させてしまったのか?

それとも、道徳不要の社会文化が、コンビニを増殖させているのか?


いずれにしても、鶏が先か、卵が先か、みたいなものでしょう。

第24章.小1プロブレム

新しく小学校 1 年生になった児童が集団行動がとれない,授業中に座っていられない,話を聞かないなどの状態が、近年目立つようになってきており、それらを「小1プロブレム」と言うのだそうです。


就学前の幼稚園や保育園の段階での教育や、家庭環境にも問題がある、とされているようですが、それ以前の問題として、残念ながら、子供たちが正常に育つような好環境な社会は、もはやどこにも見当たらない、と言っても過言でない程の世の中になってしまっていると思うのです。


挙げれば、きりが無いので、ひとつだけ例を挙げるとするなら、たとえばコンビニでの立ち読み。


毎週必ず、おきまりの週刊誌を購入している方たちもいます。その横で、毎週、心置きなく立ち読みをしていく方もいらっしゃいます。

自分の書棚に入れたい様な立派な書籍ならともかく、週刊誌ですから、お金を支払わず中身を読破してしまえば、それで事足りてしまいますよね。つまり、きちんと代金を支払って、読んでいる人たちがバカを見るような(損するような)世の中なのです。

しかし、現在は書店にも店内に椅子やベンチが設置してあるところもあり、ましてやコンビニなんぞは、立ち読みは当然の常識のような位置づけになってしまっています。

コンビニ世代も、もう子を持つ親になり始めています。子供たちには、どう説明するのでしょうか?

また、子供たちの目にはどう映るのでしょうか?

少年犯罪が激増していくのも当然でしょう。


たしかに昔は(コンビニが無かった時代)こんなことはありませんでしたよ。

つまり、子供たちが悪いのではなく、コンビニ社会を奨励しているような大人たちが悪いのです。