第43章.自動販売機
「いらっしゃいませ」
「△△△円です」
「□□□円お預かりします」
「■■円のお返しです」
「ありがとうございました」
と言うような、最近の技術ならコンピュータでも作れるような無機質な応答で接客をし、年中無休24時間営業している・・・。何かが思い浮かびませんか?そうです、自動販売機。すこし極端な言い方かもしれませんが、近いものはあるような気がします。
決められた商品を決められた場所へ、決められた数量分陳列する。売れたら、その分また発注して補充する。そんな店舗に、お客さんは何を感じ、何を思って買い物するのでしょうか?それはまさに自動販売機でジュースを買うのと変わりないでしょう。
つまり、店舗(従事者)に対し、なんら人格的価値を認知していないのです。
ゴミ捨てのみの利用だったり、トイレのみの利用、あるいは立ち読みのみの利用、時間つぶし暇つぶし、が平然と出来てしまうのはその為です。
昔の小売店なら、店主とお客との間に、まさに血の通ったやりとりや行き来があり、お客さんも、お店の経営者やその家族、従業員に対してまで、その向こう側に見える私生活まで意識した感覚で、あくまで「人対人」として接していたと思います。
しかし、コンビニはそういったことまで簡素化、簡略化、合理化の名のもとに排除して、
新たな小売店の販売スタイルを確立しました。
それが、まさに「自動販売機スタイル」です。
そして、売る側も買う側も知らず知らずのうちに、こういうコンビニの感覚を心地よく感じ、出来る限り他人と接することなく買い物が出来る、また販売ができることを、わずらわしさから逃避するような感覚で受け入れてしまっていたのです。
これがまさに犯罪社会への肥やしになってしまっている要因の一つと言っていいでしょう。
第42章.閉店の理由
どのくらい前あたりからでしょうか?
閉店したコンビニの空き店舗が、携帯電話ショップや、学習塾、はたまたラーメン店に様変わりするのを、街で頻繁に見かけるようになったのは。。。。
このような光景を目の当たりにして、ごく普通の消費者は、
「あぁ、向うの通りに新しいコンビニができたから、つぶれたんだね。」
「あぁ、以前から、このコンビニは感じが悪かったからね。きっとそれが原因だよ。」
などと、たいていの場合その店舗の、経営不振が理由だと感じることでしょう。
しかし、それは大きな間違いです。
閉店していった、あるいはこれから閉店しようとしている多くのコンビニ店は、経営不振などという単純明快な理由でやめた、やめる訳ではないのです。
閉店の根本的理由は、「人間的生活の取り戻し」と
「人としての尊厳の確保」なのです。
もともと、24時間体制での店舗管理を夫婦で切り盛りするなどという事は、相当な精神的負担と体力的負担があるのです。
つまり、元来、相当な無理をしなければ成立しないのです。
アルバイト等の従業員の効率的な配置を理由に、本部の新規開発担当者は言葉巧みに誘導していきますが、はっきり言って、そんなに甘い物ではありません。
現にコンビニ加盟が原因で、離婚等の家庭崩壊につながった事例もたくさんあります。
消費者に対する過剰なサービスという、敷居の極低化によって、現場運営の店舗経営者がこの上ない負担を強いられているという現状があるのです。
一日も早く閉店して、楽になりたいというコンビニオーナーはたくさんいます。いやいやに、無理に続けているから、そのような経営内容にもなります。違約金の発生しない契約期限まで、惰性でやっているだけなのです。
まぁ、だからこそ、一般消費者の目には、経営不振で廃業というふうにうつるのでしょう。
何を隠そう、私も、そういうオーナーのひとりなのですから。。。。
第41章.母の愛
私が子供の頃、遠足や運動会にはお母さんが握ってくれたおにぎりやお弁当を持って行くのは特別なことではなく、誰もがやっていることでした。
「今日は暑いから、具は梅干だけだよ」
「え~~っ、タラコがよかったのにぃ~~」
「しょうがない子だねぇ、わがまま言うなら具は無しだ!」
なんて言う会話をしながら朝のしたくをしていた事を覚えています。
子供にとって、お母さんが握ってくれたおにぎりは、それこそ具は「愛情」といっていいものです。ところが最近は、おにぎりを握れない、あるいは握ったことが無い、という若い女性や主婦がいるそうなのです。理由は、
「コンビニのおにぎりで事足りるから」
「むしろコンビニで買ったほうが、いろんな具もあるし、ご飯もおいしい」
「衛生的だし、ちょっとのご飯を炊くよりはお金も時間もかえって節約になる」
等々、聞いているうちに、納得できるような、できないような、私自身も解らなくなってしまうような不思議な感覚にとらわれてしまいます。
私が子供の頃、コンビニこそ無かった時代ですが、おにぎりや、いなり寿司のパック、幕の内弁当はお店に売っていました。
しかし、それを遠足や学校のお弁当として子供に持たせることは「恥ずべき行為」という認識を、誰もが持っていた気がします。
ところが今は「便利」がすべてにおいて優位な立場にあり、「便利」で何が悪いの?というような風潮にまでなっているのです。
「便利」とは人々の心まで狂わせるのでしょうか。
女性の社会進出の機会が増え、仕事を持つ女性が多い現代社会において、
もしかしたらコンビニは、子供たちにとっての母親的役割も担ってしまっているような気がするのです。
極端な言い方かもしれませんが、子供が自分で買い物が出来るくらいの年齢になれば、食事代さえ持たせておけば、母親も自分の時間を増やすことが出来る、つまり仕事を増やすことが出来る。こんな悲しい方程式をコンビニは作ってしまったのです。
第40章.サービス業務
サービス業務とは、消費者側にそれがサービスだという認識があって初めて成り立つのであって、
コンビニにおける様々なサービスが、もはやどれも当たり前になってしまっている以上、
そこにはサービス業務としての意味は無く、ただ単純に奴隷のごとく、お客様の要望にこたえるだけ、
ただそれだけと言っても過言ではないのです。
年中無休24時間営業、本来これも立派なサービスです。ゴミの預かり、トイレの貸し出し、
カップラーメンのお湯入れ、箸、スプーン、ストロー、挙げていけばキリがありませんが、
これらは現在、コンビニにおいてはみな当たり前のサービスです。
こんな状況が、子供たちの生活環境を取り巻いていて、教育上どんな影響を及ぼすのだろうかと考えてしまいます。
消費者にとっての「便利」を追求することが、コンビニの経営において勝ち残る為の方策のひとつだと考えるのなら、それは、「悪」の片棒を担ぐことになるかもしれません。
老若男女すべての人々が、日常において最も身近に利用するコンビニだからこそ、手をつけてはいけない部分があるのです。
そこに手を加えてしまった「食品小売店」の進化形が現在のコンビニなのです。
行き過ぎたサービスですっかり様変わりしてしまったコンビニはもはや「よろずサービスコーナー」とでも改名したほうが良いのかもしれません。
第39章.節操がない
ここ何年もの間、売り上げの低迷が続いているコンビニ業界。
最近では、各チェーンが高齢者向けの品揃えや店作りを打ち出す方策を取りはじめている。
しかし考えてみれば、これまでの間、こういった年齢層には一切見向きもしなかった業務形態こそ、まぎれもなくコンビニであり、その代表格といっても良いくらいなのではないでしょうか。
私の店は、地域柄、ご近所のお客様のご家族の皆様それぞれによるご利用が多いのですが、コンビニ本部の推奨商品では、ご家族それぞれの年代に対し、満遍なく需要に応えることはできません。
むしろ、コンビニは効率を最優先しアイテムを出来る限り絞ること、つまり利用の多い層(若者層)の需要にあわせた品揃えを徹底することを、その手法としてきました。
ところが、ここへ来て高齢化社会という背景に手のひらを返したように、今度は高齢者をターゲットにしようとしているのです。
各方面の企業が、高齢者層にビジネスチャンスを期待して、参入する動きがあるようですが、コンビニの場合、これはいかがなものでしょうか。
これまで、コンビニが構築してきた営業スタイルが、そう簡単に老人対応型に成り得るのだろうか?コピー機すら、使い方が解らない方が多く存在する客層です。運営内容そのものを変更しようとでも言うのだろうか?
基本的にバイトでまかなうコンビニが、老人に対して細やかな配慮なんてできるのだろうか?
少し飛躍のし過ぎかもしれないが、老人を狙う犯罪者たちに対しても、ある意味「便利」を与えてしまうのではないか?
いずれにせよ、コンビニという営業スタイルはこれまでも、そしてこれからも犯罪の舞台になりやすいという現実を忘れてはならない。
「高齢者にやさしい店作り」などと、高齢化社会に向けて社会的貢献活動の一環のような、体裁の良いアピールをしながら、
実は、単に、人口的に多い高齢者層へとターゲットを変更したいだけなのです。
節操が無いのも、この上ないですね。
第38章.「非常識」の先駆者
コンビニの入り口付近に直に座り込んで菓子や弁当を食する若者の姿は、今や誰もが目にしたことのある光景と言っても過言ではありません。
また逆に言えば、これが現代社会におけるコンビニでよく見かける「風情」。。。などと表現してしまっても良いのかもしれません。
昔の小売店なら店主が即座に出てきて注意をしたことでしょう。と言うか、そんな場所でたむろする若者もいなかったのです。つまりこれもまたコンビニの産物と言えるわけです。
昔は、本屋さんで立ち読みをしていると、お店の人がそそくさとやって来て、なんともわざとらしくパタパタとハタキで掃除を始めるというのが一般的な光景で、言葉は無くとも「立ち読みご遠慮ください」ということをお客さんは感じ取り、立ち読みを終了する。今思えば、どこか懐かしく、なんとなくいい味がある、そんな光景でした。
ところが、今ではお客さんが購入したい本をゆっくり吟味できるようにという名目なのか、椅子まで用意してある書店が多くあります。ましてや「立ち読み禁止」などという雰囲気のお店は、ここ最近お目にかかったことがありません。実際、私も書店を利用するので、昔に比べれば相当便利になったと感じます。
でも、常に疑問を感じているのも否めません。
書籍は、その物自体の価値もさることながら、その内容に大半の価値があるわけで、特に雑誌なんかの場合は読み切ってしまえば、もう買う必要は無いのですから。
現在の本屋さんのスタイルしかしらない子供たちは、その辺のことをどう捉え考えているのだろうかと不安さえ感じます。
そして、気づいていない人も多いようですが、これもまたコンビニが始まりだったのです。店舗の一番外側に雑誌コーナーを配置し、雑誌を読む人が店外から良く見え、賑わっているように見せるというのがもともとの狙いなのです。つまり「立ち読み」を奨励するような方策を初めにとったのは、まぎれも無くコンビニなのです。
第37章.地球にやさしい店づくり???
最近では、いろいろな分野で環境問題が叫ばれていますが、はっきり言いまして、コンビニは最も環境に悪い業務形態のひとつだと、私は考えます。各チェーン本部は、そういったことを世間一般、あるいは環境団体から指摘、批判されることを避けるためか、
「地球にやさしい店作り」というようなフレーズを頻繁に用いるようになりました。
しかし、実際の現場では何がどう「地球にやさしい」のか、と疑問に思うことがたくさんあるのです。現にそれを言うなら
24時間営業自体がすでに矛盾しているでしょう。深夜も昼間も変わらない入店客数があるような地域は別として、多くの店舗では入店の少ない深夜に、昼間と変わらぬ、あるいはそれ以上の電力を消費しています。地球環境や省エネを口にするのであれば、立地条件にかかわらず、チェーン統一で24時間営業というのも、実におかしな話なのです。
昔は、箸が添付(提供)されている商品と、そうでない商品がありました。当然、箸が付かない商品を買ったお客さんが、箸を必要とする場合「箸をつけてもらえますか?」と言わなければならず、その際、多少の不便さ、面倒さがありました。環境のことを考慮してなのか、現在では全のお弁当類から箸は外されています。その結果どうなったか。
店員のほうから「お箸、お付けいたしますか?」と聞きます。箸の必要なお客さんは、頭をかるく縦に振ってうなずきます。
たったこれだけの違いが、お客さんの心に大きな変化をもたらしたのです。お客さんは以前に比べ、圧倒的に「お箸」をもらいやすくなったのです。
「三膳ちょうだい」「もう一膳ちょうだい」
関連性のない商品を買ったお客さんまでもが「箸ちょうだい」・・・。私の店の場合を見ても、結果的に箸の消費量はかなり増えました。
スーパーでは「買い物袋を持参しましょう」という運動を展開しているところを、よく見かけます。
主婦や年配のお客さんならともかく、男性や独身の若者の場合、なかなか買い物袋を持参する人は見かけません。買い物の量が少ないからと思われるかもしれませんが、それはあまり関係ないようです。
例えばパン1個と缶コーヒーを買ったお客さんが「袋はいいです」と言う確率はかなり低く、逆に「袋にお入れしますか?」などと聞けば怒鳴られる場合のほうが多いでしょう。それは、もちろん袋に入れろということです。「ゴミを入れるから袋をくれ」という人さえいるくらいですから。
すべてのお客さんが・・・、とはいいませんが、コンビニを利用する人々の多くは環境問題など頭にありません。いえ、もちろん普段はあるのかもしれませんが、少なくともコンビニで買い物の最中にそんな事を考えている人は「無」に等しいでしょう。
もしかしたら「地球環境問題」等の道徳感情をも麻痺させてしまう働きが、コンビニにはあるのだろうか?
第36章.コンビニ環境で育つ子供たち
最近、青少年による想像もできないような恐ろしい凶悪犯罪を頻繁に耳にします。ごく普通の子供が、ある日突然キレる。犯罪者になる。
これは、学校や家庭での道徳教育が、もはや社会とマッチしないものになってしまっている結果のひとつではないでしょうか。
家から持ってきたと思われる古い週刊誌の束を、いくつも自転車に積んできて、店の前のゴミ箱に入れようとして、入れ口が小さくて入らないものだから、ゴミ箱の上に置いて帰ろうとした少年に言いました。
「困るよ、雑誌は君の家で処分してもらわないとね。」
「えっ?そうなんですか?じゃあなんでゴミ箱あるんですか?」
「リサイクルステーションとか廃品回収とか、知らないの?」
「それなら、ここの店で出しておいてよ!ここで買い物してんだからさぁ」
私は言葉を失いました。開いた口がふさがらない、まさにそういう状況でした。この会話に見られるように、少年の心に「道徳」は微塵も感じられません。こんなふうに、捨てていく瞬間に声をかけることができるのは極めて稀なケースで、たいていの場合はゴミを片付けるときに、その内容を見て呆気にとられるのです。
おむつ、蛍光灯、自動車のバッテリー、古着、ビデオテープ、水槽、観葉植物、まだまだ紹介したくなるモノ(ゴミ)はたくさんあります。これらを目の当たりにしたとき、私は、捨てていった人たちを責める気持ちにはなりませんでした。
こういうことが平然とできる基盤を作ってしまったのは、まさにコンビニではないのか。生き残るために様々なサービス(便利)を展開してきた結果、しだいにサービス(便利)が当たり前になり、また次のサービス(便利)を提供する。結果、人々の心には「コンビニはなんでもあり、なんでもOK」というような概念が定着してしまったような気がするのです。
第35章.「我慢」「辛抱」
お盆や正月、昔はどこのお店も休みでした。最近では、コンビニの販売スタイルの影響と世の中の不景気とが相まって、大型店も元旦から営業するところが増えてきました。平日においても、大型スーパーが夜11時まで営業したり、中には24時間営業のスーパーまで存在するようになりました。本当に便利になったと思います。
一般的に人は(私も含め)一度「便利」を味わえば、もう二度と不便な状況に戻ることはしません。そして、それでもなお不便さを訴え、より一層の「便利」を追求するのです。でも、そのことによって、本来一番必要な「モラル」を無意識のうちに除外してしまっていると思うのです。例えば、「常識的な時間」という感覚も失われつつあります。「夜の11時は深夜ですか?」「若い女性の帰宅時間としては常識的ですか?」と聞けば「11時なら特に問題ないでしょう」と答える人々が増えているのではないでしょうか?こういった感覚、昔はごく一部の限られた人のものだった気がします。今では塾帰りの中学生が10時過ぎにコンビニに寄ってジュースを買う姿は、よくある「普通」の光景なのです。こうした時間帯に少年少女が気楽に出歩くことが出来るのですから、犯罪に巻き込まれたり、関与したりする可能性は、昔と比べ明らかに高いといえるでしょう。
このように、目先の便利にとらわれて、その裏側にある教育面での危険性には全く気づかないまま、コンビニは今日まで便利に向かって猪突猛進してしまったのです。
不便な時代は「我慢、辛抱」していたことも、
便利になれば「我慢、辛抱」する必要がなくなります。
私が一番恐れているのは、現在の子供たちは「我慢、辛抱」することを身に付ける環境に恵まれていないということ。なんら「我慢、辛抱」の経験なく成長していく、そうした状況を考えると、街の一番身近な「便利」、コンビニのあり方を見直したほうが良い気がするのです。
第34章.「いじめ」と社会とコンビニ
ここのところ、新聞やテレビでは学校におけるイジメが、やたらとクローズアップされていますね。それにより、自殺を誘発させてしまっている感じさえします。
学校や教師、教育委員会・・・と、責任追求の矛先は関連するあらゆる方向へむけられていますが、問題はそんなに浅いところには無いのかもしれません。
問題は、社会全体にあるのです。便利ばかりを追求し、道徳、モラルをおろそかにしてきた社会に・・・・。
便利になり過ぎてしまった現代社会の人々の多くは、何事においても自ら「改善」「改革」「解決」する能力が退化しつつあります。
他者へ依存し、責任は果たさずに他へ転嫁できる都合の良い社会の中で、便利な文化に保護されて生活することに慣れてしまった人々が増加したことが、「いじめ」がクローズアップされるほどの大きな社会問題にまで発展する、一要因と考えます。
「いじめ」そのものは、昔からというか、いつの時代も、また学校に限らず、どんな場所でも起こりうることです。しかし、このような社会においては、イジメる側はより激しく、より陰湿に・・・、イジメられる側は耐えられずに、簡単に「死」を選んでしまう・・・、という傾向にあるのです。
私たちは、これから、「思いやり」や「優しさ」を育む社会、そんな世の中を作らねばなりません。
世の中が便利になればなるほど、子供たちが道徳を学ぶ場所、機会が失われていきます。
次から次へと度を越した便利を提供するコンビニ・・・。私たちはもう一度「便利」ということについて考え直す必要があります。
人々の暮らしを豊かにする為の「便利」と、怠慢を助長するだけの「便利」は明らかに別物なのですから。